はじまりのおと

 道行く人が僕を見ていた。走れば走るほど動悸が激しくなり、苦しくなるけれど止まれなかった。止まってしまえばもう足が動かなくなる気がして、人を避け、ただただ一心に走り抜けていく。

「はぁっ……う、っ……」

 誰も居ない廊下にしゃがみ込み、呼吸を整える。窓から見える夕焼けが眩しくて、下を向いた。下を向くとうまく呼吸ができないけれど、どうにもそんなきれいな空を見つめる気分にもなれなかったのだ。

 なんでそんな顔隠してんだよ。そんな言葉を共に僕に手を伸ばしてきた生徒を振り払うように、僕はここに逃げてきた。別にあれが初めてなわけではないし、寧ろあんなことは昔から日常茶飯事だった。だからこそ僕にとっては恐ろしく、トラウマのように思える。面白半分、からかい半分だと言うことは知っている。が、頭でわかっていても身体が勝手に動いてしまうのだ。
 また、逃げてしまった。そんな事実は僕の心にどんよりと黒いものを残していった。強くなるために、こんなふうに弱気な自分を変えたくて武道を身につけた。けれど未だに僕の根本的な低角は治らず、こうして今日のように逃げてしまうのだ。
 情けない。悔しい。そうは思っても、僕みたいに弱い人間はたぶん、一生あんな人たちには敵わないんだろうなあと、痛切に感じた。
 
「………帰ろう」

 そう呟き、立ち上がろうとするけれど、どうにも足が重く感じた。ああ、明日あの人たちに会ったら、また同じようなことを言われるのだろうか。そんなことを思うと、気分が一層重くなる。頭に酸素が行き渡っていないのか、またぐらぐらとよろめいてしまう。深く深呼吸をし、立ち上がった時だった。

「うわあ!?」
「っ……!」

 人気が少ないと確証していたのに、どうやらここの前を誰かが通ったらしく、そんな短い悲鳴が聞こえた。痛む頭を抑えながら顔を上げ、僕は息を飲んだ。

「草陰君?」

 ブルーの髪、僕を見つめる険のある目、その姿はいつも同じ教室にいる委員長、風澄徹だった。あまり話したことはないけれど、話はよく聞く。人当たり良く、ランクも確かAを超えているはず。絵に描いたような優等生。彼は正しくそんな人物だった。そして何より驚きなのは、僕の名前を知っていることだ。やはり委員長ともなると、その辺りまで徹底しているものなんだろうか。

「委員長殿…」
「大丈夫か!?」

 立ち上がって謝ろうとすると、足元がふらつき、委員長殿に倒れこんでしまった。離れようと思い、腕に力を入れようとするけれど、どうにも力が入らない。やっぱり、さっきの人たちのせいだ。

「どうした?なにかあったのか?」

 心配そうな委員長殿の声が聞こえる。どうして、数えきれるほどしか話したことも無い、対して仲良くも無い僕にこんなに優しくしてくれるのだろう。どんな疑問が頭を過ったけれど、そんなことを聞く余裕は僕の頭になかった。優しく諭してくれる委員長殿に向かって、僕は小さな声で呟いた。

「さっき、顔、を、見られそうになって」
「うん」
「逃げて、きた、けど……っ」

 話している途中でぼろぼろと泣きだす僕を見ても、委員長殿は特に何かを言う気配はなかった。途切れ途切れ話す僕の話に頷きながら、優しく話を聞いてくれる。そんな委員長殿に僕も安心して、全てを吐露してしまった。



「怖かったんだね」
「そっ…そんなに子供扱いしないでほしいでござる!」
「だって泣いてただろう?」

 そう言われ、ぐうの音も出なかった。何も言わない僕を見て、委員長殿は小さく笑う。
 あの後、委員長殿に手を引かれるままに空き教室へと僕は連れられた。椅子に座らせられ、嗚咽を上げている僕に委員長殿は何も言わず、僕が落ち着くまで傍に居てくれたのだ。落ち着いてから考えると、本当に我ながら情けない話だ。もし僕とぶつかったのか委員長でなければ、どんなことになっていたことか。
 
「それにしても、やっぱりそんなバカみたいなやつもいるもんだ」
「………」

 僕の話した人のことを、委員長殿はそう言った。確かにバカみたいだと僕自身も思ってはいるけれど、委員長殿の口からそんな言葉を聞くと、どうにも違和感を感じる。
 確かに僕はあの人たちに顔を見られそうになり、逃げ出した。だけどそれには別の理由もあり、トラウマというのもわかるような事情だ。
 小さい頃、僕は数人に囲まれ、女なんじゃないかと笑われたことがあった。無論その頃から性格の変わっていない僕は、もちろん怯え、反発するようなこともなく逃げようとした。けれど相手は複数人、腕を掴まれ、何が起こっているのかもわからなかった。そして一人が言い出す。脱がして確認してやろうぜ、と。
 幼心の好奇心であったと今なら理解できる。が、当時の僕はもちろん混乱し、服を脱がせられるその状況が恐怖以外の何物でもなく、死に物狂いで泣きながらその場から逃げだしたのだ。その時のことは今でも鮮明に覚えていて、思い出すたびにぞっとする。なんせ同性に服を脱がせられるなんて状況は、生きていて一度あるかないかというようなもの。そして性別を確認されるためともなれば、忘れようにも忘れられない恐怖がある。
 そしてさっきのあの人たちも、同じだったのだ。顔の確認と、それから昔と同じく、実は女なんじゃ、という言葉が聞こえた。そしてその瞬間、自分の中で何かが爆発したのだ。
 昔のあの日の記憶が蘇り、目の前のこいつらも同じことを考えている。そんなことを思えば、吐きそうにもなるし、全身が危険信号を上げるのもわかるという話だ。
 と言っても、この話自体はあまり人に言えたものではない。だからこそ、委員長殿に言ってしまったことが自分でも驚かしかった。でも、場合が場合だったし、仕方ないと言うことにしておく。

「……迷惑かけて、申し訳なかったでござる」
「いいよ別に、気にするようなことでもない」

 そう言う委員長殿を見て、余計に申し訳なくなった。そもそも普通に考えて、そう仲良くもない人に泣きつかれるというのはどういう気分なんだろうか。しかも女の子であるならいくらか理由もわからないことも無いけれど、同性にというのは。

「委員長殿は、優しいでござる」
「……なんで?」
「だって、僕にここまでしてくれたんでござるよ?」

 普通なら無視して行ってしまう、ということもある状況。むしろそっちを選んだ方がよっぽど利口であっただろうと思える。さすが委員長でござるね。そう笑うと、委員長殿は表情を曇らせていた。先ほどまで優しい表情を浮かべていたのに、どうして機嫌を損ねてしまったのかわからず、口には出さずとも視線を泳がせてしまう。すると委員長殿は深い溜め息を吐き、言う。

「別に僕は委員長だから風澄君のことを助けたわけじゃないよ」
「………へ?」
「そうだなあ…友達、とか?」

 笑顔を浮かべながらそう言う委員長殿を見て、ぶわっと顔が赤くなり、熱を持つのがわかった。こんな性格であるせいか、僕にはあまり仲のいい友達と呼べる存在が居なかったりする。だからこそ、委員長殿にそんなことを言われたのが嬉しくて、恥ずかしくて、どう言い返せばいいのかわからなかった。

「う、あ、あの」
「はい」
「ぼ、僕と、友達になってくれるでござるか…?」

 震える声で必死にそう言うと、うんと委員長殿は言う。その言葉を聞き入れ、思わず感動してしまった。先ほどあった出来事はどうあれ、委員長殿に友達として、優しくされていたことに、少しだけ優越感を感じた。委員長殿は、僕だから、助けてくれた、と。でもきっと、委員長殿なら他の人でも助けていたことだろうけど。

「い、委員……風澄殿!」

 なに?と言ってくる委員長殿、風澄殿になんでもないでござると返せば、変なのと笑われてしまい、釣られて僕も笑った。恥ずかしかったけれど、名前を呼ぶと言う行為が僕にとっては嬉しくて歯痒かった。

「でも、久々に名前呼ばれたな」

 みんな委員長だから。そう笑う風澄殿の横顔を見る。初めて出来た、友達と呼べる存在。嬉しくて、自分ばかりはしゃいでしまっているのはわかっているけど。
 わずかに涙の跡が残っている目許を擦う。さっきまでは夕方だったのに、気が付けば外はとっぷりと暗くなっていた。そろそろ帰るでござる。そう言って椅子から立ち上がると、そうだねと風澄殿が笑う。

「じゃあ、また明日ね、稜」
「あ、」

 そう言い残して教室を先に出ていってしまう風澄殿の背中を見て、また顔が赤くなった。名前を、呼ばれてしまった。そんな事実が僕にとっては大きなもので、恥ずかしくて、思わずその場にしゃがみ込んでしまった。でも、このくらい普通なことなのかもしれない。僕が慣れてないだけで。
 そう言えばまたありがとうと言っていなかった気がする。そんなことを思い出し、その場から立ち上がって急いで風澄殿の後を追った。恥ずかしくて、赤い顔では会いたくないから、走りながらも必死にぱちぱちと頬を叩いた。