君の涙で溺れたい

 そいつを見てるとどうしてか胸が苦しくなって、他のヤツよりもっと接したくなった。面倒だと思っていた愛想笑いも、そいつの前だと自然な笑顔が浮かべられた。もっと話したい、一緒に居たい。そんな初めての感情に、俺はきっと戸惑っていたんだと思う。
 何人もの女と付き合っては来たけれど、率直に言えば面倒なだけだった。その場限りの関係だと言っても、ネチネチと後から言ってくる女も居れば、ずっと一緒に居たいなんて猫撫で声を出す女も居た。正直、反吐が出る。キモイ。
 でもあいつは違った。そんなことはなかった。面倒だなんて思えなくて、でも、それでもそれが恋だと実感してはいけない気がして。
 初めて人を、好きになった。

「つーかーれたー…」
「お疲れ様、アルヴィン」

 ベッドに寝転んでそう言えば、ジュードは笑ってそう言っていた。自分も疲れてるだろうに、そう呆れるけれど、優等生のお人よしは元より。今更何かを言う気にもならなかった。それにジュードのそういうところが、好きだった。
 やっと見つけた宿で今日は過ごすことになっていた。ミラとエリーゼは久々の宿屋に喜んでは居たけれど、その宿屋を探すのにも一苦労だった俺たちにとってはいい迷惑だ。最も、ジュードはそんなことを思っていないのだろう。
 チラッと隣のベッドを見ると、ジュードは自分の手を見つめていた。
 ジュードは言う、自分の本職は医者なんだ、と。だからこそ、人を救うためのその手で敵の群れに先陣切って行くのはやはり抵抗があるのか、未だにこうして自分の思うところを見つめている時があった。
 
「アルヴィン、怪我とかしてない?」
「へーきへーき」

 そっか。そう微笑むジュードを見て、また胸がドキンと高鳴った。
 俺とジュードは付き合っている。ジュードから告白されて、断る理由もなかったから俺も承知した。そもそも初めから俺は、ジュードのことが好きだったわけなのだけど。

 だけど俺は知っている。いつかジュードのことも、ミラのことも、エリーゼのことも裏切らなくてはならないことを。
 情報を横流ししていると知ったら、ジュードはどんな顔をするだろう。軽蔑しきった顔をして、最低、と、言うのだろうか。それとも嘘だよねと、引き攣った笑みを浮かべるのだろうか。どちらにせよ俺がすることは、とても恋人にするような仕打ちでないことは、明確だった。
 怖かった。ジュードに優しくされればされるほど、知れば知るほど、ジュードを好きになることが。いつか裏切る時が来て、その時俺は、ジュードから素直に手を引けるのだろうか。ジュードのことだ、きっと俺と一緒にみんなを裏切る、なんてことができるわけがない。
 初めからジュードのことを好きにならなければよかった、そう後悔しても、無理だった。どんなに嫌いになろうとしても、忘れようとしても、やっぱりジュードのことが好きで好きで。
 人間ってのはどうして誰かを好きになってしまうのだろう。しかも同性でも、好きになるなんておかしい。あまりに非生産的で、無意味なことだというのに。

「……アルヴィン?」
「………あ」

 気が付けば、ジュードは不安げな顔で俺のことを見ていた。いつものように下手な笑顔でも、無関係な話の一つでも吹っ掛けてやろうと思うのに、言葉はなにも出てこなかった。なにも、考えられなかった。

「アルヴィン、顔色悪いよ……どうしたの?」

 やめろ、そんなふうに優しくされたら、またお前のことが好きになる。お前のことを、手放したくなくなる。

「アルヴィ──」
「っ、うるさい!」

 俺に手を伸ばしていたジュードの手が止まり、肩をびくんと動かした。そんな姿を見てふと我に帰り、ごめんとジュードに言う。ああもう、俺、なにしてんだよ。
 いつもそうだ。大切だって気付けたものは、俺の手から離れていく。どうでもいいものばっかり、いらないものばっかり積み重なっていって、自分でもどうしたらいいかなんてわからない。わかってるならもう、とっくにどうにかしてる。

「ジュード……俺と、別れてくれよ」

 そう言えば、ジュードはまた驚いたような顔をしていた。先ほど見た申し訳なさそうな顔なんかじゃなくて、もっと不安そうな、うしろめたいよう顔。

「……どうして?」

 僕のこと、嫌いになった?そう言うジュードは皮肉なことに笑顔を浮かべていて、やはり自分の無力さに苛立った。こんな時くらい、いっそ泣いてくれた方がマシだ。最低だと、嫌いだと罵られた方が後腐れなく別れられたのに。忘れられたのに。
 知り合ってそれほど時間が経っているわけではないけれど、ジュードのことはそれなりに理解していた。お人よしな性格。自分より他人を優先する生き方。考えがまとまってから行動するけれど、それでもやはり身体が先に動くこともある。それから、人のことを困らせるのが嫌いで、人に嫌われるのが何より嫌で、いつも笑顔を浮かべて接している、こと。

「俺と一緒に居ても、優等生は幸せにはなれねーよ」

 いつもの調子でそう言えば、ジュードは物悲しいような顔をして俺を見ていた。だけどすぐに口を開いて言う。そうじゃないでしょう、と。
 ジュードもジュードだ。俺と知り合ってそんなに時間が経っているわけでもないのに、俺のことを理解してて、でも、やっぱ根っこの部分まではわかんねーよな。

「いいんだよ、いつか俺はジュードに嫌われる」

 裏切った時に嫌われるなら、そこで一気に嫌われるより、こうして自分がひどい人間であることを知らしめておいた方が負担も少ないだろう。そんなことを考えていた。
 ジュードに嫌われるのは、怖い。なんせ初恋の人だし、失ってしまうことも、恐ろしいから。だけど一番恐ろしいのは、俺のせいで、ジュードが変わってしまうことだった。
 今のままのジュードが好きだから。バカみたいに世話焼きで、お人よしで、それでも自分の信念を貫くジュードが好きだから。そんなジュードが俺なんかのせいで傷ついて、変わってしまうのは、怖い。
 ぐっと唇を噛み締め、舌を俯いていた。するとジュードがベッドから立ち上がり、俺のことを抱き締めてきた。突然のことに声が出ず、されるがままになる。

「僕はアルヴィンじゃないから、アルヴィンの考えてることなんて、わかんないよ」

 震える声を聞いて、やはりジュードを傷つけてしまっていることが悲しくなる。今まで人を泣かせようと、怒らせようと、特に特別な感情を抱くことはなかった。だからこそこんなにも悲しくて、辛いのだろう。

「だけど僕は、アルヴィンのこと、嫌いになんてなれないよ……」 

 今にも泣き出しそうなほどか細い声なのに、とても優しげで。そんな声色を聞いていると俺の心境が知られている気がして、そんなあるはずもない衝動に駆られ、俺もジュードを抱き締めていた。力を入れてしまったら壊れてしまいそうなほど、華奢な身体。いずれ俺の元から離れていってしまうであろう、愛しい存在。

「でも俺は……ジュードに幸せになってほしいんだ」

 笑っていて、ほしいんだ。
 泣きそうな声でそう言えば、ジュードは何か言うこともなく俺を抱き締める力を強めた。

「アルヴィンがいなかったら、全然幸せじゃない、笑えない」

 子供が駄々をこねるようにジュードはそう言った。初めて見るジュードの姿を愛しく思い、余計に心苦しくなる。涙を溜めているジュードの頭を撫でると、俺は笑って言った。

「好きだよ、ジュードのことが。誰よりも」
「……なら!」
「だけど駄目なんだ、わかってくれよ」

 わかっている、全てが自分の身勝手だと言うことを。

「おかしいよな。ジュードのことを幸せにするためなら、嫌われても辛い目に遭わせてもいいなんて」

 もう全てを吐きだしてしまいたかった。いっそこの場で裏切者だとバラして、逃げ出してしまいたかった。
 俺なんかを好きでいてジュードが傷つくなら、どんなに嫌われても、辛い目にあわせても、やっぱり幸せにってほしいんだ。俺みたいな、歪んだ大人にはなってほしくない。
 そんな俺の思いをわかったのか、ジュードは頭を撫でていた俺の手を払い除けた。ごめんなジュード、俺の、世界で最初で最後の恋人。

「………勝手なこと言うな!」

 ぱっと顔を上げたかと思えばジュードはそう強く言うと、俺にキスをしてきた。ジュードとキスをすることは何度もあったけれど、ジュードからされることは初めてで、驚いてしまう。

「な、なに言って」
「言ったでしょ!僕は何があってもアルヴィンのこと、嫌いになんてならない!」

 バカなこと言わないでよ。そう言うジュードの声は涙声で、ジュードが俺の肩に頭を載せた。その時手に冷たい滴が触れ、その直後に嗚咽のようなものが聞こえてきた。
 物分かりがいい優等生のくせに、変なところが強情で。全く、どっちがバカなんだか。

「……ああ。悪かったな、ジュード」

 ぽんぽんと背中を叩きながらそう言い、涙を流しているジュードにキスをした。キスをした後に幸せそうに微笑まれて、罪悪感で死んでしまいそうだった。だけど、後悔なんてしていなかった。
 ごめんなジュード。俺の勝手な身勝手で、いつかお前を辛い目に遭わせてしまう。今みたいに、泣かせてしまうかもしれない。だけど、俺は、ジュードのこと、信じてもいいよな。
 十以上も下の子供に縋っている自分が情けなかった。腕の中で泣くジュードを宥めていると、俺まで泣きそうになった。本当にごめん、ジュード。こんな駄目な大人で、ごめん。
 いっそこのまま死んでしまいたい。そう思ったけれど、そしたらまたジュードを泣かせてしまう。そんな現実を実感し、なんだか笑いが込み上げてきた。