それが運命だったとしても

 傲慢な人間は、あれもこれもと欲張ろうとするから全てを失うと言う。本当に大切なものはいつもすぐ傍にあって、それらも手元から無くなってようやく、その大切さに気付くのだと言う。
 そんなバカな人間にはなりたくなくて、いつも善良な自分で有りたかった。気付いた時にはもう何も持っていなかった俺にとって、大切なものはただ一つ。兄さんだけだった。
 兄さんを失うことなんて一生ない。そう俺は思っていたし、兄さんに迷惑をかけたくなくて、いつだっていい子供で居たかった。どんな時でも笑っていた。兄さんにも笑ってほしくて、辛い兄さんの顔なんて、見たくなかったから。

 なのに俺はいつからか、いい子共でも、善良な人間でも無くなっていた。知らないところで世界で一番大切な兄さんに迷惑をかけていて、しかも俺はそんな兄さんの苦労も知らずに、疑ってばかりだった。
 いつしか思い違っていた兄弟は、とうとう対立してしまい、全てを知った時にはもう、全てが手遅れになっていたのだ。

「いやだ……っ、いやだ!兄さんを殺してまで俺は、生きたくなんて、ない!」

 ぼろぼろと涙を流す俺を見て、兄さんは優しく微笑んでいた。困らせないでくれよ。そう笑う兄さんの顔は、ずっと昔、まだ何も知ろうとしていなかったころの俺がわがままを言って、兄さん困らせてしまったあの時の笑顔だった。
 
 兄さんが俺のためにずっとひた隠しにしていたことを自ら知ってしまったのは、俺の責任だった。俺が兄さんの言われるままに暮らして居れば、きっとこんなことにはならなかった。俺が兄さんのことを疑ったりしなければ、素直に従っていれば、きっと今でも兄さんと幸せに暮らしていられたのだろう。
 何が悪いのか、どこから間違ってしまったのか。それら全てを何度考えても、俺自身が悪いと言う、そんな答えにしか結びつかなかった。
 きっと優しい兄さんは、お前は悪くないと微笑んでくれるのだろう。だけどね兄さん、こうなることが運命だったとしても、必然だったとしても、俺は絶対にそんなことは認めないんだ。

「なあ、ルドガー、よく考えてみろ」
「な、に……?」
「俺一人が犠牲になれば、あの子を助けることもできる。そしてこの世界も、ビズリーの願望から救うことができるんだ」

 兄さんは小さな子供に諭すようにそう言う。エルを助けること、それが俺の目的だったけれど、兄さんを殺してまでなんて、そんなのは絶対に嫌なんだ。

「じゃあ、もし、兄さんを助けることを選んだら?」

 震える手で兄さんに触れ、涙声でそう言うと、兄さんはとても辛そうな顔をした。唇を噛み締め、下を俯いている。ねえ、兄さんはそんな辛そうに思いつめている顔を、いつもしていたの?俺が見ていないところで。俺が何も知らずに、兄さんのおかげで幸せに生きていた時も。

「……あの子は助からないだろう。そして、お前は世界のすべてを敵に回す」
「…………ははっ」

 兄さんが言わなくても、何となくわかってはいた。エルが助からないのは確実だろうし、世界を敵に回す、なんていうのは少し買い被っている言葉かもしれないけれど、ただ一つだけ言えることはある。少なからずジュードもミラも、みんな俺の敵になってしまうと言うことは。
 乾いた笑いしか出てこなかった。わかりきっていたはずのことなのに、こんなにも辛いことだなんて、思いもしなかったから。
 試験に落ちたはずのクランスピア社のエージェントになれた時は、本当にうれしかった。兄さんと同じ職に就くことは元々夢だったから。でも、真実は兄さんが裏から手をまわして俺が落ちるように仕向けてた、なんて、本当に笑える話だ。
 ひとつ分史世界を壊していくたびに、自分の心が真っ黒い何かに蝕まれている気がしてならなかった。最初のころはこれで世界が救えるなら、と、ちょっとした勇者にでもなったような気持ちだったから。
 だけどそうじゃなかった。いや、世界を壊す本当の重さに気付いたのは、ミラに出会ってからだった。
 俺の勝手な都合で巻き込み、俺の勝手な都合でその命を俺たちのために、使ってくれた。この上ないほど憎んでいたであろう俺たちのために、優しい彼女はそこまでのことをしてくれたのだ。
 何度泣いても泣き足りないほど、俺は泣いた。でも、彼女はきっと俺なんかと比べ物にならないほど泣いたのだろうと思うと、心が痛くて仕方なかったのだ。

 そして俺は気付いた。結局俺は、俺自身の力では誰ひとり救うことのできない、ちっぽけな存在でしかないのだと。
 情けなかった。なんでもできるような気でいて、結局何かを決断する時には怖気づいて、何もすることができない自分自身が。

「にいさん、ごめん。……ごめん、なさい」
「お前が謝る必要なんてない」

 止まっていた涙が再びあふれ出し、兄さんは俺を優しく抱きしめてくれた。小さい頃、怖い夢を見た俺を、幼い兄さんがこんなふうに宥めてくれたことを思い出す。そう、あの時も兄さんは、とてもとても、優しかった。

「さあ、ルドガー。覚悟は出来たか?」

 出来ていない。そんな言葉が喉元まで込み上げてきたけれど、俺はそんな言葉をぐっと飲み込んだ。
 出来ることなら、ミラだって、兄さんだって救いたかった。俺がもし、みんなを助けられる力があったなら、分史世界の、行き過ぎてしまった俺自身──ヴィクトルだって、救ってやりたかった。
 だけど俺にはそんな力はない。そしてそれらの願いをかなえることによって、大勢の怒りを買ってしまったとして、それらを背負うことだって、出来ないんだ。
 
 高慢な人間は、全てを求めてしまうが故に、全てを失ってしまうのだと言う。なら俺は、この世界で一番弱くて、罰当たりで、どうしようもない存在であってもかまわない。
 兄さんの元から離れると、俺は腰の双剣を抜き、兄と同じ構えをした。

「ルドガー……?」

 見ていて兄さん。始めから何も持っていなかった俺に、全てを与えてくれた兄さんのために、俺はせめて、自分のできることをしてみようと思うんだ。

「やめろ!ルドガー!?」

 軽いステップを踏み、剣をジュードに向ける。するとジュードは驚いたような顔をしているのにすぐ受け身の態勢をとり、俺は一歩後ろへと下がった。ジュードたちは何か叫んでいるようだけど、俺には何も聞こえなかった。

 くるりと後ろを振り向くと、兄さんは地面に座り込み、目を丸くして俺のことを見ていた。ごめんね兄さん、やっぱり俺、兄さんの望むいい子なんかじゃいられなかったみたいだ。

「兄さん、俺、兄さんにすごく感謝してるんだ」
「やめろ…やめてくれ、ルドガー…」
「だから俺、やっぱり兄さんのこと、殺せない。殺させも、出来ないよ……」

 ただ笑って見せて、頬から涙が零れた。余裕を見せている暇なんてなくて、嘗ての僕の仲間たちは、俺に向かって全員、刃を向けていた。
 大切なものを失ってしまうくらいなら、もういっそ、すべてなくなってしまえばいい。俺はそう思いながら、必死に全員の攻撃を受け流した。
 例え全てを失っても、俺には兄さんが居ればいい。それがどんなに愚かしいことかなんて、俺には分からなかった。だって、兄さんは俺にとって、神様みたいな存在だったから。
 ドンッと凄まじい音がして、目の前の敵が吹き飛んでいった。そしてそんな姿を見た誰かが大きな声を上げ、俺へと向かってくる。辺りには鉄臭い匂いがして、すごく、気持ち悪かった。
 ねえ、泣かないで兄さん。俺は絶対に、俺の大切なものを失ったりなんてしない。失わせることだって、絶対にしない。バカな人間になんて、ならないから。


「ほら兄さん、顔を上げて──」